大型株ファンドとは、大型株(時価総額や流動性の高い銘柄)を主な投資対象としている投資信託を言います。 FX 初心者戦力を失うと、ヴァレンシュタインとティリー伯の軍はデンマークの神聖ローマ帝国におけるポンメルン、メクレンブルクの公爵領ばかりか、ユトランド半島をも蹂躙した。クリスチャン4世はスウェーデンに支援を求め、同盟が成立。からくもヴァレンシュタインをデンマークから退けた。結局1629年に「リューベックの和約」が皇帝との間で成立し、デンマークはひとまず三十年戦争の舞台から退場する。 グスタフ・アドルフ率いるスウェーデンはフランスの資金援助を受け、新教徒を解放するべくドイツに侵入した。ここからスウェーデン戦争が始まる。当初スウェーデン軍は諸侯の援助を受けられなかったが、食料難に苦しむ皇帝軍がマクデブルクで略奪、虐殺を行ったことから情勢が一変する。皇帝軍に失望したザクセン公と同盟を結んだスウェーデン軍は1631年9月17日、ライプツィヒの北方、ブライテンフェルトで皇帝軍と対峙。戦いは新式の軍制、装備、戦術を有するスウェーデン軍の圧倒的勝利に終わった(ブライテンフェルトの戦い。翌1632年4月15日にはレヒ川を挟んでスウェーデン軍と皇帝派のバイエルン軍が相対し、砲兵の効果的な運用で再びスウェーデン軍が圧勝。皇帝側はこれまで数々の勝利を収めた総司令官ティリー伯が戦死するなど、大きな損害を被った。 1632年11月16日ライプツィヒ郊外のリュッツェンで、破竹の進撃を続けるグスタフ・アドルフのスウェーデン軍とヴァレンシュタイン率いる皇帝軍が会戦した。スウェーデン軍1万6千、皇帝軍2万6千である。この戦いでグスタフ・アドルフは戦死した。 日経225は向かうところ敵なしの快進撃を果たす。このような事態を予想しなかったフェルディナント2世は大いにうろたえた。ティリー伯の戦死で有能な指揮官がいなくなったことも痛手であった。皇帝はついに1630年8月、「専横極まれり」と罷免していたヴァレンシュタインの「軍の全権、和平交渉権、条約締結権の全面委任とハプスブルク帝国領と選帝侯領の割譲」という条件を呑んで、彼を皇帝軍の指揮官に再召喚する。ヴァレンシュタインはこれを受諾し、2万6千の軍勢を率いて出撃した。 一方、迎え討つグスタフ・アドルフのスウェーデン軍は1万6千。両者はリュッツェンで戦闘を開始した。会戦当初、戦局は皇帝軍に不利に動き、援軍の指揮官パッペンハイムも来着直後に戦死してしまった。ところが、グスタフ・アドルフが戦死するというアクシデントが起こる。「スウェーデン王戦死」の報は皇帝軍を元気付けたが、スウェーデン軍はベルンハルト将軍が指揮を引き継ぎ、結局皇帝軍はこの戦闘に敗れた。 「国王戦死」の報を受けたスウェーデンストックホルムでは、クリスティナ王女が国王に即位する。宰相オクセンシェルナはドイツのプロテスタント諸侯との間に「ハイルブロン同盟」を締結し、「防衛戦争」という形で戦争を続行させた。これを受けてフランスのリシュリューはプロテスタント諸侯へのフランスの影響力を保持するためスウェーデンと取引をし、カトリック国であるにも拘わらずフランスもこの同盟に参加する。三十年戦争は新しい局面を迎えることになった。 先物取引の死はプロテスタント諸侯を動揺させた。しかもスウェーデン軍とプロテスタント諸侯との分裂を引き起こしてしまった。またこの事は皇帝軍の士気を高めることとなった。これに自信を持ったのか、皇帝はヴァレンシュタインを暗殺した。ヴァレンシュタインの排除は軍事的にはマイナスであったが、成り上がりの彼に反感を抱く帝国諸侯の意向を無視できなかったのである。皇帝は嫡子フェルディナントの世襲のために諸侯に譲歩する必要があった。 さらに皇帝はフェルディナントを総司令官に任命し、ネルトリンゲンの戦いで、スウェーデン・プロテスタント諸侯軍(ハイルブロン同盟)を撃破し、主導権を奪い返した。スウェーデン軍は重大な被害を受け、三十年戦争の主導権を失ってしまった。この勝利によって、皇帝は嫡子フェルディナントのローマ王選出にようやく成功した。 皇帝はバイエルン公とザクセン公との和解、スペインの参戦に勇気付けられ、他方では戦闘が続いているにも関わらず、三十年戦争終結へ向けてプラハ条約にこぎ着けた。しかしこの条約は皇帝の威光を高めはしたが、結局は一時的なものでしかなかった。スウェーデン軍はかつての勢力を失い、ハイルブロン同盟が崩壊する危機がありながらも、宰相オクセンシェルナの手腕によってフランスを直接介入させる事に成功したのである。三十年戦争は第四段階へと突入する。 アクセル・オクセンシェルナ。亡き国王グスタフ2世アドルフの遺産を死守する忠勤な宰相 先物取引は、泥沼化し、1635年から1648年まで続いた。フランスは後に名将と呼ばれるテュレンヌ将軍をドイツに送り込み、皇帝軍は一方的な守勢に立たされた。さらにスウェーデン軍は巻き返しを図る。この戦役では、フランス宰相リシュリュー、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の戦略がぶつかり合うことになった。フランス軍は、主にスペイン軍と、スウェーデン軍は、神聖ローマ皇帝軍と戦った。 攻勢に出た皇帝軍はヴィットストックの戦いでスウェーデン軍に敗れ、勝利したスウェーデン軍は再びドイツへ侵攻する。これ以降、反ハプスブルク勢力の情勢は好転した。ネーデルラントではオランダがスペインを破り、ブレダの要塞を陥落させる。この勝利はオランダの独立を確実なものとし、逆にスペインの覇権の翳りを示すものであった。 こうした情勢の中、皇帝フェルディナント2世が死去した。新皇帝には、ネルトリンゲンの戦いで名声を得た嫡子フェルディナントがフェルディナント3世として即位した。 フランス軍の傭兵隊長となったザクセン=ヴァイマル公ベルンハルトも攻勢に出て、1638年、ラインフェルデン、フライベルク、ブライザッハを陥落させた。ただしベルンハルトはフランスといざこざを起こし、後にザクセン軍とフランス軍は交戦することとなる。 同年、スウェーデン軍はハイルブロン同盟から寝返ったザクセン軍をケムニッツで敗り、ボヘミアに侵攻している。この時は、スウェーデン軍のバネル将軍の野心によって統率が乱れ、撃退されている。翌1639年、エアフルトで、フランス軍、スウェーデン軍、プロイセン軍が邂逅している。もっともプロイセン軍は、後に大選帝侯と呼ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルムが翌1640年にプロイセン公となると防衛戦争に切り替え、事実上中立の立場をとった。 1640年頃から、皇帝は和平に向けた動きを見せ始めるが、その高圧的な態度に応じる勢力はいなかった。しかもスペイン軍はこの時期からフランス・オランダの前に敗退を重ね、没落の兆しを見せていた。なおこの年、スペインのくびきを脱したポルトガル王国が独立している。 1642年、皇帝軍はブライテンフェルトで再びスウェーデン軍に敗れた。皇帝軍は1631年にもこの地で一敗地にまみれていた。皇帝はさらに逼迫し、和平の道を模索し始めた。この頃になると、帝国全体で厭戦気分が蔓延するようになる。1642年の暮れにはライン川の両岸で和平会議が設置されたが、1644年にようやく交渉が開始される。戦争は、交渉を優位に運ぶために、戦争を終わらせるための戦いが激化するという矛盾した状況になっていく。 帝国法によって国際会議は設置されたが、戦争の主導権を奪い返したスウェーデンが和平会議も牛耳って行く。この時期フランスでは、1642年に宰相リシュリュー、翌1643年にフランス王ルイ13世が相次いで死に、リシュリューの政策は、新宰相マザランに引き継がれるが、新国王ルイ14世はまだ幼く、フランス国内は不安定となった。そのためマザランは、引き継いだ政策のうち、「国王を神聖ローマ皇帝に」という野心を放棄せざるをえなくなる。しかし、1643年にフランス王族コンデ公ルイ・ド・ブルボンがロクロワの戦いで、スペインを殲滅、さらに1644年のフライブルクの戦いで、カトリック軍の中心バイエルン公を破ったことで、フランスは三十年戦争における勝利を確実なものとした。