オープン型投資信託とは、募集期間が決まっておらず、投資信託での運用開始後もいつでも売買できる投資信託のことです。「追加型投資信託」「オープンファンド」とも呼ばれ、MMFや中期国債ファンドもこのオープン型投資信託になります。 投資家にとっては、ファンド決算時における分配金を目的とした資金運用ができるほか、日々のファンドの値動きを見ながら売買を行うことで売買差益(キャピタルゲイン)を狙う資産運用が行える商品です。 市場や業界などを絞って運用されるファンドなど、いろいろな種類のファンドがあります。 外国為替のナポリ王国とシチリア王国はもともとアラゴン王国の支配下にあったが、アラゴン王国がスペインに統合されることによって、スペイン王家の支配を受けるようになった。ナポリとシチリアは形式的に分かれているだけで、どちらもスペインの支配下にあり、フランス・ブルボン家がスペイン王となるに及んで、ブルボンの支配はこれら王国にも及んだ。ところが、スペイン・ブルボン家初代フェリペ5世即位後勃発したスペイン継承戦争でオーストリアがナポリとシチリアを占領した。オーストリアの支配は1707年から1734年まで続いた。 ポーランド継承戦争中、フェリペ5世の王子でパルマ公だったドン・カルロスが武力でナポリとシチリアを奪回し、ナポリとシチリアの王カルロ7世となった。ここにブルボン家は南イタリアをも獲得したことになる。その後、カルロ7世はスペイン王位に即位してカルロス3世となり、ナポリとシチリアは息子のフェルディナンドに譲った。これがナポリ王フェルディナンド4世(シチリア王フェルディナンド3世)である。 19世紀始めのナポレオン戦争でナポリは一時フランス帝国の支配下に落ちたが、1816年のウィーン条約によって返還され、両シチリア王国として再出発した。ナポリ王フェルディナンド4世(=シチリア王フェルディナンド3世)は両シチリア王フェルディナンド1世となった。両シチリアのブルボン家は4代続いたが、1860年にガリバルディに征服され、統一イタリア王国に併合された。廃位後も家系は今日まで存続している。 イタリア北部のパルマ公国はファルネーゼ家によって建てられた国であるが、ファルネーゼ家が断絶した際に、フェリペ5世の王妃エリザベッタ・ファルネーゼの尽力によって息子ドン・カルロス(カルロス3世)が公位を継承した。その後パルマはポーランド継承戦争の結果オーストリア・ハプスブルク家に渡るが(ドン・カルロスは代わってナポリとシチリアの王位に就く)、オーストリア継承戦争の講和条約であるアーヘンの和約で再びスペイン・ブルボン家に戻り、カルロスの弟フィリッポが公位に就いた。このフィリッポの家系をブルボン=パルマ家(ボルボーネ=パルマ家)と呼ぶ。 FXは息子フェルディナンドが公位を継いだが、パルマはナポレオン・ボナパルトに征服され、フェルナンドの息子ルドヴィーコは新たに建てられたエトルリア王国の王位に就けられた。エトルリア王国はルドヴィーコの息子カルロ・ルドヴィーコの代にフランスに併合され、カルロ・ルドヴィーコはウィーン会議の結果ルッカ公となったが、ルッカ公国は1847年にトスカーナ大公国に併合され、カルロ・ルドヴィーコはパルマ公位を得た後に死去した。 その後、パルマ公は2代続くが、パルマ公国は住民投票によって1860年にサルデーニャ王国に併合されて消滅した。因みに、最後のパルマ公ロベルト1世は廃位後に24人の子をもうけており、10人の男子のうちから今日まで存続している家系もある。その一つは、ルクセンブルク大公シャルロットと結婚したフェリックス公子の家系である。ルクセンブルク大公家はルクセンブルク家あるいはナッサウ=ヴァイルブルク家の家名を用いているが、父系ではブルボン家の後裔に当たる。 FXもブルボン家をフランス王家として支持した王党派をレジティミスト(Legitimists)あるいは正統派という。彼らはボナパルト家支持者であるボナパルティスト、あるいは同じく王党派とされるがオルレアン家を支持するオルレアニスト(オルレアン派)と対立しながら、今日まで存在し続けている。 シャルル10世の孫、シャンボール伯アンリ・ダルトワの死によってルイ15世の男系男子が絶えると、レジティミストの一部はオルレアニストに合流したが、一部はサリカ法に基づいてスペイン・ブルボン家の王族をフランス王家継承者に推し、今日に至っている。 現在はスペイン・ブルボン家の分家のルイス・アルフォンソ・デ・ボルボーンが「ブルボン家家長」「フランス王ルイ20世」として支持されている。これに対してオルレアニストはパリ伯兼フランス公アンリ・ドルレアン(アンリ7世)がフランス王位を主張している。オルレアン家は「パリ伯」の称号をレジティミストから認められているが、ルイス・アルフォンソが用いている「アンジュー公」の称号をフランス公は認めておらず、フランスの裁判所に提訴したことがある(訴えは退けられた)。 「バルト」とは、中世以来バルト海沿岸地域全体を指し示す呼称として用いられて来た。この環バルト海の覇権を巡り、ロシア、デンマーク、プロイセン、ポーランドなどが争った。このバルト海を制す国が、後世バルト帝国と呼ばれるようになる。そのため、バルト海を意味する「マーレ・バルティクム」(Mare Balticum, ラテン語)は、バルト帝国と同意義語として扱われる様になった。バルト海はまた、ヴァイキング時代の後に「スウェーデン海」、あるいはスウェーデン・ヴァイキングの名から付けられた「ヴァリャーグ海」とも呼ばれた事もあった。 FXがバルト帝国と同義とされるのは、バルト海の制海権も含めているからである。この制海権は、ハンザ同盟の支配から15世紀にデンマークに移り、16世紀半ばには事実上スウェーデンの支配に帰した事にある(もっとも、バルト海南岸及びデンマーク近海は依然デンマークの影響下にあった)。また17世紀後半にはプロイセン艦隊もバルト海南部に影響力を誇っていた。とは言えバルト海全域を見ると、17世紀全般にわたり依然スウェーデンの影響が強く、バルト海の支配者はスウェーデンであったと言える。しかしロシア帝国はこれに対抗する為、17世紀後半から港湾と艦隊建造に邁進し、18世紀に始まった大北方戦争でスウェーデン艦隊を撃破し、バルト海の制海権もロシアに移って行くのである。 スウェーデンのバルト帝国の基礎となったのは、8世紀に始まったヴァイキングに遡る。9世紀から10世紀にかけて支配した、エストニアとクールラントが始まりとされるが、いずれもスウェーデンの統一以前で歴史的確証がある訳ではない。その後、統一を果たしたスウェーデンは、フィンランドに野心を持ち、13世紀には、ほぼフィンランド全土を自国領に組み込む事に成功した。この侵略に正当性を持たせる為、スウェーデンは「北方十字軍」と称しフィンランドをカトリック化させたのである。その後スウェーデンは王家が断絶し、カルマル同盟(1397年)に組み込まれた。しかし1523年にヴァーサ朝の元で独立。その後1558年に始まったリヴォニア戦争で得たエストニアを足掛かりにバルト帝国を築いて行くのである。 17世紀に入り、スウェーデンはグスタフ2世アドルフ(在位:1611年 - 1632年)によってヨーロッパ史上にスウェーデンを北方の大国として君臨するのである。彼はまずライバルであるデンマークを退け、スウェーデン王位を望むポーランドからはリガを奪い、事実上リヴォニアを領有した。また、ロシアの内戦に介入してカレリア、イングリアを獲得した。更にドイツ三十年戦争に介入し、プロテスタント(ルター派)の盟主にもなった。この三十年戦争によりドイツにも領土を得て(ヴェストファーレン条約により確定)、スウェーデンは名実共にバルト帝国を築き上げたのである。